みやざこ郷土史調査室

主に島根県東部で、中近世の歴史を調査しています。 主な調査は、尼子氏、尼子氏時代の出雲国衆、たたら製鉄です。 重箱の隅をつつく細かすぎて伝わらない歴史調査の記録です。

2013年02月

古志公民館刊「出雲古志氏の歴史とその性格」は、古志氏の末裔の方に伝わっていた古文書十一通(古志家文書)の研究が行われ、その資料が出雲市に寄贈されたことによって資料の価値が深まりました。それらを含めた54通の古文書と参考資料2点を収めています。
 
その一次史料の半数近くは古志因幡守重信(生没年不詳、天文年間から慶長年間)に関連しており、その足跡をたどると興味深いものがありました。古志氏の古資料には「佐々木譜」「北島家蔵佐々木塩冶古志之系図」とその注記がありますが、注記は後代に書き込まれた伝承であると思われます。一次史料の内容と伝承を突き合わせてみると、実像が更にわかってくるかもしれません。
 
重信が資料に初めて登場するのは、比布智神社天文二十四年(1555)九月二十六日付棟札です。比布智神社(出雲市芦渡町)を時の古志家当主である古志左京亮宗信が支持して遷宮し、その奉献の祭礼に古志惣領一族がこぞって参列した模様が書かれています。それによれば、新十郎と書かれている重信は宗信の子ですが嫡子ではなく、列挙が長幼の順ならば四男となります(「佐々木譜」による系図では五男)。宗信の嫡子と思われる豊信以外の兄弟は通称のみ書かれているので、この時は元服前だったかもしれません。
 
次の重信の登場は、尼子氏滅亡後の永禄十二年(1569)であり、その時に京都にいました。彼はその年の一月五日、室町将軍足利義昭を三好三人衆の軍勢が襲撃した「本圀寺の変」で、足利方に加わって戦っているのです。足利義昭側近の上野秀政が送った書状によれば、その戦闘で首級一つを挙げたことが将軍の覚えめでたいと述べられています。伝承によればこの戦いで七人を討ち取ったと言いますが、突き合わせると、七人の敵を倒してその内の一人が手柄に値する兜首だったということでしょうか。また伝承では、古志家中において仲違いを起こして郷里を離れ、京に上って足利義昭の側近となったと言いますが、それはどうでしょう。義昭はそれまで上洛の軍を出す大名を求めて流浪しており、前年に織田信長の支援で上洛を果たし、十月に将軍になったばかりです。御在所も六条の本圀寺で、護衛も明智光秀の手勢など京駐留の織田家臣が中心となる小規模軍、であれば京都において衛士の募兵があった可能性は十分あり(当時は戦があれば、流れ者の牢人や足軽が傭兵として雇われるのが常)、それに応じて足利義昭の配下に加わったのだと考えます。
そして、この時に京都にいたということが彼の運命を変えます。
 
同じ永禄十二年十月二十一日付、尼子勝久家臣連署書状(日御碕文書)に、古志重信の署名があります。彼は尼子再興軍に参加し、しかも軍の中枢部にいたことがわかります。
この年、京都東福寺にいた尼子勝久を旗頭に擁し、山中鹿介・立原久綱らは尼子再興軍を旗揚げ、六月に出雲に上陸し瞬く間に勢力を拡大します。重信は京都で鹿介らに出会ったのでしょう。そしてその旗揚げに加わったようです。前後しますが同年九月二十三日付で重信は家臣に安堵状を発行しており、それによれば彼は古志氏の旧領を回復していたことがわかります(この時点での署名は古志新十郎重信)。また、彼は尼子勝久の政権下で杵築大社との折衝役を果たしていたことも古文書からうかがい知れます。
しかし、翌永禄十三年(元亀元年だが書面で永禄十三年になっている)十一月二日、彼は吉川元春と起請文を取り交わし、毛利氏に帰順しています(この時の名乗りは玄蕃助)。同年二月の「布部山の戦い」で大敗を喫して以来尼子再興軍の勢力は衰え、その趨勢の変化による判断でありましょう。この時点で吉川元春は神西城に居て年を越し、この頃に古志氏が降伏したことが「森脇覚書」に記されています。伝承では、重信は戸倉城に拠って毛利軍と交戦しており、吉川元春はなかなかこれを破ることができなかったので、大社を通じて降伏を呼びかけ、重信はやむなくこれに応じたと言います。その後の重信の用いられ方からすると、元春による「引き抜き」という線も十分考えられる気がします。
 
天正二年(1574)十二月二十五日付、吉川元長書状(牛尾家文書)によると、古志重信(この頃の号が因幡守)は但馬国に出向いていたことがわかります(この頃、因但国境付近で第二次尼子再興戦が起こっており、動乱真っ只中だった)。それまでも毛利軍一員として転戦していましたが、重信は五畿内・但馬国において「御案内者」の任務を負っていたようです。つまり、地域における顔つなぎ役や特に敵方に与した勢力と連絡を取ったりする重要な役割です。これは彼が京都で足利義昭配下として活動していた経歴と人脈を買われてのことと思われます。
興味深いことに、重信から毛利家への要望も提出されており、それによれば、兄である左京亮(豊信と思われる)の子息を当主に立てて古志氏の旧領での復興を願い出ていること、自身は「日山麓」すなわち吉川氏本拠の日野山城下に居住したいと願い出ていることがわかります。本来庶流の重信は旧臣の糾合のために嫡流の復興を図らざるを得なかった可能性があり、一方で吉川氏と古志氏の関係を深めるために、自ら吉川氏の旗本になる必要を考えたかもしれません。彼の要望はどちらも、最後まで叶えられることはありませんでした。
天正五年八月六日には、前年に京を追放され鞆の浦に下向していた足利義昭の側近上野秀政から書状が送られています。伝承では重信はこの時鞆の浦に下ったと言いますが、その事実はないようです。
天正六年六月二日付、吉川元春書状(牛尾家文書)では、古志重信の活動をさらに伝えています。彼は但馬や畿内方面の情報を収集してそれを元春に報告している様子で、但馬国人太田垣氏を内通させるなどの調略や戦闘に奔走していることがわかります。この時元春は上月城を攻撃しており、但馬戦線は重信や垣屋豊続に任せざるを得ない状況でしたが、その中で大きな役割を果たしています。最も興味を引くのは、この書状の中で五畿内や荒木村重への調略に精一杯努力するよう求められていることです。この年の十月に摂津国主荒木村重は織田方から毛利方に寝返りますが、重信が重要な役割を果たした可能性があります。
とはいえ、荒木村重の造反によって毛利軍が山陽道から畿内まで勢力拡大すると、全軍を山陽側に集中するようになったので、但馬の戦線は見殺し状態になります。そこをついて織田軍は山陰方面に進出し、天正八年五月には羽柴軍団が但馬を制圧します。その時点まで重信は但馬で奮戦していますが、翌年までに出雲に帰国したようです。
 
その後は出雲国内で杵築大社関係の折衝を行ったり、平田に在陣したりしており、天正十四年(1586)には九州に出陣して、豊前国宇留津城の攻略に戦功を挙げています。
天正十九年(1591)の「総国次座替」で、古志重信には備後御調郡に二百石九升六合、子息である新十郎(重信の初名を名乗っているので嫡子とわかる)に備後恵蘇郡五百石二升四合が与えられて転封となります。この時に息子の方が多く与えられているので、重信は既に隠居していたと思われます。出雲の本領を退転することになり、さらに関ヶ原の敗戦で毛利家が減封になると、防長に下らず帰農します。毛利家に頼ってももはや出雲の本貫を回復できず、故国復帰の望みももはや絶たれたから、ではなかろうかと思います。
 
あまり知られない武将と思いますが、古志重信は優れた能力をもった出雲の武将であったと認識しました。

図書館で「出雲古志氏の歴史とその性格」(1999/古志公民館・古志史探会刊、長谷川博史執筆)という郷土史資料を読んでいましたが、その内容がなかなかに興味深く思いました。
この本は出雲国古志郷(現在の出雲市古志町・下古志町・芦渡町の一部に比定)に割拠した中世豪族古志氏についての一次史料をまとめ、解説し、それを元に古志氏の実像に迫る基礎研究書です。というのも、これまでの通説では、出雲古志氏は備後古志氏と混同されていることが多く、また史実と後世の記述の区別がつかない点も多く存在したようです。これは備後古志氏が天正十九年(1591)に備後沼隈郡新庄を没収されて歴史上から消滅し資料も散逸したこと(備後古志氏については十六世紀半ばの「古志左衛門大夫豊綱」を除いて当主の名前も一次資料に確認できない)、その同時期の総国次座替によって出雲古志氏の古志重信・勝信にそれぞれ備後国御調郡・恵蘇郡に転封となり、その後土着したことから両家の混同が生じたと考えられます。
 
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古志氏関連の地図(電子国土ポータルにて作成)
 
出雲国神門郡古志郷の領主古志氏は宇多源氏佐々木氏の一族で、出雲守護佐々木泰清の子義信が祖とされます。彼の兄は守護を相伝した頼泰で、その孫に当たるのが塩冶高貞です。古志氏は西出雲の名家で出雲の源氏長者というべき塩冶氏と極めて近しい同族であると言えるでしょう。古志氏の成立は1280年代頃と思われます。
鎌倉末期から安土桃山時代に至るまで割拠した古志氏ですが、その所領規模は決して大きくありません。しかし、京極氏、山名氏、尼子氏、毛利氏と密接に関係を持ちながら、それら大勢力によって重用されています。
その理由は、古志氏が杵築大社と密接な関係にあったことにあります。系図や古文書資料によれば、古志氏は代を重ねる間に出雲国造家の千家家や別火家と姻戚を結ぶなどしていますし、現在残っている一次資料も大社に関連するものが中心です。出雲守護京極氏の統治機構として「社家奉行」に任じられて大社側との折衝にあたっていますし、他の時代においても大名家と杵築大社勢力との仲立ちを行っています。
また、古志氏は室町時代初期の貞和三年(1347)には隠岐国山田別所に所領を有していたことが明らかにになっており、応安六年に宍道湖北岸の「安国寺領祢宇村」(松江市大野町)の領有を巡って係争を起こしています。古志氏の本拠は神門川に面しており、隠岐に所領があったことや宍道湖沿岸の欲していたことを見ると、水運に関わって実力をつけていた可能性を伺えます。水運は、軍事・経済のみならず、中央や周辺地域の情勢などの情報収集力との関係性が高いのです。
 
尼子経久が陰陽を席巻する大名となっている頃に古志氏は尼子氏傘下に加わります。尼子興久が塩冶氏の名跡を継いだ頃であると考えられます。古志氏は天文九年の「竹生島奉加帳」にて、出雲衆に古志左京亮(宗信)、富田衆に古志六郎左衛門尉(員信)の名が挙げられています。古志氏惣領の左京亮宗信は尼子与党の国人として、傍流と思われる六郎左衛門尉員信は富田城に赴いて尼子家の直臣になったと考えられます。尼子家との関係を強めるべく送り込まれたものでしょう。六郎左衛門尉員信は古志郷から東へ約5kmの宇那手村(出雲市宇那手町)地頭職を与えられていますが、これは尼子家からの給地だと思われます(宇那手町の火守神社に員信関連の棟札あり)。
天文十一年の大内義隆軍の出雲進攻において古志宗信は大内氏に降りますが(大内義隆からの書状あり)、再度尼子方につきます。結果所領を安堵されたようです。ですが、毛利氏の進攻の前に古志は制圧され、古志氏は一旦没落します。このことは、永禄五年(1562)に毛利氏家臣で安芸国人の熊谷信直・広実父子に古志郷500貫が与えられていることから分かります。これは本城常光を誅殺したことに対する賞のようです。須佐郷高櫓城主で山吹城代だった常光は毛利元就に降伏した後、元就の出雲侵攻において露払い役を務めましたが、その威勢を恐れた元就によって誅滅させられました。そうなると、古志郷は毛利軍先鋒の本城常光によって制圧されたと考えられます。
 
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古志郷から南東に5km離れたところに所在する戸倉城址の地図(電子国土ポータルにて作成)。雲陽誌によれば「古塁 戸倉山といふ 城主古志左京進源長信」と記されていて、古志重信は尼子再興戦でこの城に拠ったという。ここは古志氏の飛び地領だったのだろうか。
 
古志氏は一旦没落しますが、庶流の古志新十郎(玄蕃助、因幡守)重信によって再興されます。この人物についての資料が中心的に収められており、人物経歴についても大変興味深かったので、別記事で詳しく取り上げようと思います。
尼子再興軍によって一時的に所領を取り戻したものの、古志重信はその後毛利氏に帰順し、重要な役割を果たしています。彼は旧領の回復と古志惣領家の復興を願い求めていますが、それは結局果たされなかったようです。
 
天正十九年の総国次座替によって古志重信は備後に転封となり、出雲の所領を失います。その後慶長二年(1597)三月に和田に改姓します。関ヶ原の戦後処理で毛利氏が防長二カ国に減封になると、武士を捨てて帰農し、備後に土着します。
 
 
この資料は「今後の古志氏研究のたたき台」と位置づけられていますが、理解しやすくまとめられた資料だと思いました。ただ、小規模発行の資料です、どれほどの人の目に留まるか、埋もれてしまうのではないかと心配してしまう自分もいます。通説に混乱が見られる以上、一地域資料でもいい資料があればそれを求めて、考察してもらいたいものだと思いました。
 
 

今日は探訪と取材のために安来市から広瀬町宇波、布部の方を歩き回っていたのですが(宇波で宇波城址と高小屋城址を探訪する予定だったけど、高小屋城址の登り口がわからず断念。宇波城址のあたりも法面工事で工事車両の出入りがあって避けた)、ここだけは少なくとも押さえておこうとおもって、布部要害山城を探訪することにしました。
能義郡南部の中心的な場所である布部の真ん中にそびえる標高183mの切り立った山塊に存在する布部要害山城は、元亀元年二月に起こった「布部山の戦い」の戦場として知られます。
 
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要害山は布部小学校の裏山にあたります。正式の登山路は麓の布辯神社から通じていますが、要害山の案内看板に従って歩いたら小学校に入ってしまったので、失礼ながら小学校裏から登りました。
山の中はよく整備されていて、おそらく小学校の自然学習に活用するのでしょう、自然歩道や樹木の案内板などがあちこちに見られました。
 
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南側斜面(布部小学校側)にはいくつもの曲輪が設けられ、連携した曲輪群となっています。写真はそのうちの主要なものと思われる曲輪です。
曲輪と曲輪の間に堀切を設けているところもあり、曲輪群の全体を切岸で囲っていて、なかなか堅牢に防備が施されている印象でした。
 
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最頂部の主郭です。愛宕社の祠があり、境内地となっています。夏頃にこのあたりに来ると、山裾からこのあたりまで提灯が灯ります。
単郭の独立した曲輪と言える造りで、南側曲輪群と堀切を隔てて一段も二段も高く作られています。周囲は切り立った斜面ですが、ある程度切岸として加工を施されているでしょう。北側には腰曲輪を確認しました。
 
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主郭から南側(布部ダム、比田方向)を眺めます。
布部山の戦いの時、吉川元春率いる毛利軍は左手側の谷間から進軍してきたのでしょう。
 
布部要害山には尼子氏旧臣の森脇市正久仍が立て籠っていました。決戦となった布部山の戦いでは、尼子再興軍は前半は地の利を生かして優勢でしたが、毛利軍は背後から回り込んで尼子再興軍の本陣を急襲、これが決定打となって尼子軍は潰走、出雲を巡る一大決戦は一日で決着がついてしまいました。
森脇久仍はその後も尼子再興軍とともに戦いますが、因幡戦線で敗れたのを機に毛利氏に降伏したと伝わります。
 
城址を歩いてみて気になったのは、城址内の山中に、幅一尋程度はある里道と思われる道路が幾筋も通っていたことです。主郭と曲輪群を隔てる堀切部も里道になっていました。そのうちの尾根伝いに西にずっと続く道をある程度歩いて行ったのですが、そのまま隣の村まで到達しそうでした。
後代にある程度の工事がなされたかもしれませんが、自動車が通るような道ではないので大掛かりな土木工事があったとは思えません。もしかしたら要害山には、山地を越えて山佐の方向に行く昔の往来が通っていたかもしれません。
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その里道にあった、砂岩を切り崩した切通。これはいつ作られたものなのでしょうか。布部要害山城に至る関門として設けられたものなら面白いな、と思いました。
 
布部周辺には、尼子再興軍の陣跡や、山中を通る「中山街道」、西ノ谷には山中鹿介を祀った「鹿介神社」など、興味深い古跡がありました。今回は巡ることのできなかったものもあるので、また探訪に行こうと思います。

今日は温泉と水汲みのついでに、久しぶりに奥出雲町に行ってきました。
少し前までは、時間があれば奥出雲に向かっていたのですが、冬期は雪に埋もれますし、昨今のガソリン価格の上昇などもあって遠出をしなくなったので、約半年ぶりの奥出雲行です。
一昨年、昨年はかなりの大雪に見舞われましたが、今年は比較的雪が少ないように思えるので、実際の雪の具合を見て、登山できる時期を見定めようという下見を兼ねていました。
 
県下随一の豪雪地帯とも言える馬木地区も、積雪があまりない様子でした。中国山地の山稜であれば積雪はもちろんあるのでしょうが、今日は全体的に雲がかかっていたので確認できませんでした。
久しぶりに馬木公民館に立ち寄って(しばらく来ないうちに公民館長さんが代わっておられた)立ち話をしていましたが、二月三月に積雪は予想されるけど、四月には雪はなくなるという話で。
 
今年の春には、もう一度矢筈山に登って、夕景城址の調査を行う予定なのです。
2009年11月に初めて夕景城址を訪れた時は、到達するのが目的でじっくりと調査をすることはできなかったですし、2011年11月に訪れた時は城址のガイドをしていたので調査の時間を取ることはできませんでした。今一度じっくりと観察して調査を行っておきたいですし、まだ探訪していない東の峰の城郭群や、矢筈山の尾根筋にある貝の平城址の探訪も計画に含めたいところ。
一昨年の探訪で、主要部のある西の峰と東の峰の間に石積み群があったのを見ているので、これがなんなのかも気になります。
 
地元の人もほとんど登ることのない夕景城址は中世山城の遺構を見事に残している立派な城郭遺跡であるので、城郭愛好家の人たちのみならず多くの人に訪れてもらいたい、なるべく地元馬木の人たちに、自分たちの村にはこのような立派な城跡があるということを認識していただきたい、望みとしては、地元小学生が遠足で訪れるところになってほしいと思っているのです。そのためには山が整備されなければいけないわけで。
夕景城址がいかに立派なものかを調べ、伝えることで、自分としてはちょっとでもお役に立てればと勝手に思っているわけです。
 
四月に動くとなれば、10日、24日、29日のいずれか。天候の具合によりますかね(雨天での登山と調査は能力的に無理)。
 
それまでのあいだは、松江市内で調査に勤しんでおくつもりでいます。川津城址、堂塔山城址、羽倉城址、J14城郭遺跡などの実踏調査を進めておかなければ。最近は学者みたいに文献に向かうことが多かったですが、自分の本来は足で稼ぐ調査であるはず。
 
懸念は天候と、花粉症の程度でしょうか。

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