古志公民館刊「出雲古志氏の歴史とその性格」は、古志氏の末裔の方に伝わっていた古文書十一通(古志家文書)の研究が行われ、その資料が出雲市に寄贈されたことによって資料の価値が深まりました。それらを含めた54通の古文書と参考資料2点を収めています。
その一次史料の半数近くは古志因幡守重信(生没年不詳、天文年間から慶長年間)に関連しており、その足跡をたどると興味深いものがありました。古志氏の古資料には「佐々木譜」「北島家蔵佐々木塩冶古志之系図」とその注記がありますが、注記は後代に書き込まれた伝承であると思われます。一次史料の内容と伝承を突き合わせてみると、実像が更にわかってくるかもしれません。
重信が資料に初めて登場するのは、比布智神社天文二十四年(1555)九月二十六日付棟札です。比布智神社(出雲市芦渡町)を時の古志家当主である古志左京亮宗信が支持して遷宮し、その奉献の祭礼に古志惣領一族がこぞって参列した模様が書かれています。それによれば、新十郎と書かれている重信は宗信の子ですが嫡子ではなく、列挙が長幼の順ならば四男となります(「佐々木譜」による系図では五男)。宗信の嫡子と思われる豊信以外の兄弟は通称のみ書かれているので、この時は元服前だったかもしれません。
次の重信の登場は、尼子氏滅亡後の永禄十二年(1569)であり、その時に京都にいました。彼はその年の一月五日、室町将軍足利義昭を三好三人衆の軍勢が襲撃した「本圀寺の変」で、足利方に加わって戦っているのです。足利義昭側近の上野秀政が送った書状によれば、その戦闘で首級一つを挙げたことが将軍の覚えめでたいと述べられています。伝承によればこの戦いで七人を討ち取ったと言いますが、突き合わせると、七人の敵を倒してその内の一人が手柄に値する兜首だったということでしょうか。また伝承では、古志家中において仲違いを起こして郷里を離れ、京に上って足利義昭の側近となったと言いますが、それはどうでしょう。義昭はそれまで上洛の軍を出す大名を求めて流浪しており、前年に織田信長の支援で上洛を果たし、十月に将軍になったばかりです。御在所も六条の本圀寺で、護衛も明智光秀の手勢など京駐留の織田家臣が中心となる小規模軍、であれば京都において衛士の募兵があった可能性は十分あり(当時は戦があれば、流れ者の牢人や足軽が傭兵として雇われるのが常)、それに応じて足利義昭の配下に加わったのだと考えます。
そして、この時に京都にいたということが彼の運命を変えます。
同じ永禄十二年十月二十一日付、尼子勝久家臣連署書状(日御碕文書)に、古志重信の署名があります。彼は尼子再興軍に参加し、しかも軍の中枢部にいたことがわかります。
この年、京都東福寺にいた尼子勝久を旗頭に擁し、山中鹿介・立原久綱らは尼子再興軍を旗揚げ、六月に出雲に上陸し瞬く間に勢力を拡大します。重信は京都で鹿介らに出会ったのでしょう。そしてその旗揚げに加わったようです。前後しますが同年九月二十三日付で重信は家臣に安堵状を発行しており、それによれば彼は古志氏の旧領を回復していたことがわかります(この時点での署名は古志新十郎重信)。また、彼は尼子勝久の政権下で杵築大社との折衝役を果たしていたことも古文書からうかがい知れます。
しかし、翌永禄十三年(元亀元年だが書面で永禄十三年になっている)十一月二日、彼は吉川元春と起請文を取り交わし、毛利氏に帰順しています(この時の名乗りは玄蕃助)。同年二月の「布部山の戦い」で大敗を喫して以来尼子再興軍の勢力は衰え、その趨勢の変化による判断でありましょう。この時点で吉川元春は神西城に居て年を越し、この頃に古志氏が降伏したことが「森脇覚書」に記されています。伝承では、重信は戸倉城に拠って毛利軍と交戦しており、吉川元春はなかなかこれを破ることができなかったので、大社を通じて降伏を呼びかけ、重信はやむなくこれに応じたと言います。その後の重信の用いられ方からすると、元春による「引き抜き」という線も十分考えられる気がします。
天正二年(1574)十二月二十五日付、吉川元長書状(牛尾家文書)によると、古志重信(この頃の号が因幡守)は但馬国に出向いていたことがわかります(この頃、因但国境付近で第二次尼子再興戦が起こっており、動乱真っ只中だった)。それまでも毛利軍一員として転戦していましたが、重信は五畿内・但馬国において「御案内者」の任務を負っていたようです。つまり、地域における顔つなぎ役や特に敵方に与した勢力と連絡を取ったりする重要な役割です。これは彼が京都で足利義昭配下として活動していた経歴と人脈を買われてのことと思われます。
興味深いことに、重信から毛利家への要望も提出されており、それによれば、兄である左京亮(豊信と思われる)の子息を当主に立てて古志氏の旧領での復興を願い出ていること、自身は「日山麓」すなわち吉川氏本拠の日野山城下に居住したいと願い出ていることがわかります。本来庶流の重信は旧臣の糾合のために嫡流の復興を図らざるを得なかった可能性があり、一方で吉川氏と古志氏の関係を深めるために、自ら吉川氏の旗本になる必要を考えたかもしれません。彼の要望はどちらも、最後まで叶えられることはありませんでした。
天正五年八月六日には、前年に京を追放され鞆の浦に下向していた足利義昭の側近上野秀政から書状が送られています。伝承では重信はこの時鞆の浦に下ったと言いますが、その事実はないようです。
天正六年六月二日付、吉川元春書状(牛尾家文書)では、古志重信の活動をさらに伝えています。彼は但馬や畿内方面の情報を収集してそれを元春に報告している様子で、但馬国人太田垣氏を内通させるなどの調略や戦闘に奔走していることがわかります。この時元春は上月城を攻撃しており、但馬戦線は重信や垣屋豊続に任せざるを得ない状況でしたが、その中で大きな役割を果たしています。最も興味を引くのは、この書状の中で五畿内や荒木村重への調略に精一杯努力するよう求められていることです。この年の十月に摂津国主荒木村重は織田方から毛利方に寝返りますが、重信が重要な役割を果たした可能性があります。
とはいえ、荒木村重の造反によって毛利軍が山陽道から畿内まで勢力拡大すると、全軍を山陽側に集中するようになったので、但馬の戦線は見殺し状態になります。そこをついて織田軍は山陰方面に進出し、天正八年五月には羽柴軍団が但馬を制圧します。その時点まで重信は但馬で奮戦していますが、翌年までに出雲に帰国したようです。
その後は出雲国内で杵築大社関係の折衝を行ったり、平田に在陣したりしており、天正十四年(1586)には九州に出陣して、豊前国宇留津城の攻略に戦功を挙げています。
天正十九年(1591)の「総国次座替」で、古志重信には備後御調郡に二百石九升六合、子息である新十郎(重信の初名を名乗っているので嫡子とわかる)に備後恵蘇郡五百石二升四合が与えられて転封となります。この時に息子の方が多く与えられているので、重信は既に隠居していたと思われます。出雲の本領を退転することになり、さらに関ヶ原の敗戦で毛利家が減封になると、防長に下らず帰農します。毛利家に頼ってももはや出雲の本貫を回復できず、故国復帰の望みももはや絶たれたから、ではなかろうかと思います。
あまり知られない武将と思いますが、古志重信は優れた能力をもった出雲の武将であったと認識しました。